いろえんぴつ株式会社 代表取締役
大田原 裕希
インタビュー、広報、旭川、アイス。大田原裕希さんの話には、一見すると離れて見える言葉がいくつも出てくる。けれど、その一つひとつはばらばらではない。やらされて始めたインタビューが、人の意思決定を知る仕事になり、故郷への想いと結びついていった。裕希さんが見ているのは、会社の紹介でも、地域を盛り上げるための大きな物語でもない。人と人が出会い、会話し、街の中に小さな接点が増えていく未来だった。
点と線
裕希さんの話は、最初から一本の線として見えるわけではない。
インタビュー、広報、旭川、そしてアイス屋をやりたいという夢。言葉だけを並べれば、それぞれは別々の話題に見える。
けれど、裕希さんはそれを別々のものとして語らなかった。
旭川でアイス屋をやりたい。それは、インタビューや広報の仕事とは別の話なのか。そう尋ねると、裕希さんは、すべてがつながっている感覚を話してくれた。
観光に行ったとき、人の感情のピークには食がある。北海道へ行ったことがあると話す人の多くは、札幌、函館、小樽のような場所を思い浮かべる。食を目的に人が訪れる場所がある一方で、旭川はまだ、食のために選ばれる街として語られることが多くない。
では、何のために旭川へ行くのか。
裕希さんは、その問いを自分の中に持っている。
話は大きく飛んでいるようで、裕希さんの中では飛んでいない。インタビュー、広報、アイス、旭川。一見ばらばらに見える言葉も、向かっている先は同じだった。
自分がやりたいことや目指しているゴールを話す。すると、周囲の人がそのつながりを受け取り、「こういう人を紹介した方がいいかもしれない」と考えてくれるようになる。
アイスの情報が届く。一緒に食べに行こうと声をかけてくれる人がいる。誰かが別の誰かを紹介してくれる。
裕希さんの中ではもともとつながっていたものが、話すことで周囲にも伝わり、また新しいつながりを生んでいく。
それは、単に仕事を増やすためのブランディングではない。
自分が何を考え、何を目指している人なのかを、周囲が理解できる状態をつくることだった。裕希さんの言葉には、いつも目的がある。たまたま好きなものを話しているようで、その奥には、自分がどこへ向かいたいのかを周囲に伝え続ける意志がある。
裕希さんと一緒に歩きながら話を聞いていると、気になるものを見つけたところで足を止める。少し観察し、また話に戻る。歩く速度は速い。言葉は落ち着いている。けれど、関心が向いたものには迷わず近づいていく。
その姿は、裕希さんの話し方そのものにも重なる。
目の前のものを観察する。自分の中で意味を見つける。必要なものだけを拾い上げる。その繰り返しの中で、ばらばらに見えたもののつながりが、少しずつ周囲にも見えてくる。
始まり
裕希さんがインタビューを始めたのは、強い憧れがあったからではない。前職で、メディアの立ち上げを任された。「やって」と言われたから始めた。それが最初だった。
もともとインタビューに興味があったわけではない。営業をしていたからできるだろうと言われ、最初のうちは、自分でもよく分からないまま取り組んでいた。
けれど、その頃の裕希さんにとって、それはまだインタビューではなかった。
営業経験があるからこそ、相手の話を聞きながら、どこかで営業につながる言葉を探してしまう。こう言ってもらえたら、このサービスは自然に売れそうだ。そんな考え方が頭に浮かぶ。相手の中から言葉を見つけるのではなく、こちらが欲しい答えに誘導しようとしていた。
裕希さんは、それを「ヒアリング」だったと振り返る。
相手にあらかじめ想定した答えを言わせるために質問している状態。それでは、良い記事にもならない。インタビューの質も上がらない。相手にとっても、質問に答えただけの時間になってしまう。
最初の10社ほどは、手応えを感じにくかったという。
当時は、自分から強い関心を持った相手だけを取材していたわけではなかった。それでも話を聞き、記事にする。リサーチ、取材、執筆、修正、公開まで、記事が世に出るまでの流れをひと通り担っていた。ひとつの記事に、多くの時間がかかる。会社の立ち上げ期でもあり、営業も事務も労務も担う。自分が何屋なのか分からない状態だった。
それでも記事は積み上がっていった。
記事が増えていく中で、裕希さんの中に問いが生まれていく。このインタビューを、自分は何につなげたいのか。何のために、人の話を聞いているのか。
その時、裕希さんの目標が少しずつ定まっていった。
もともと自分の中にあったのは、旭川の地域に関わりたいという思いだった。それを思い出した時、インタビューに対してもゴールを置く必要があると気づいた。ゴールがなければ、自分の聞きたいことも聞けない。相手の言葉を受け取るのではなく、ただのヒアリングになってしまう。
インタビューが面白くなったのは、紹介が生まれ始めた頃だった。
自分で取材先を選ばなくても、誰かが紹介してくれる。話を聞き、記事にし、発信することで、相手が喜んでくれる。そこから人のつながりが増えていく。
記事数が増えた頃、インタビューを通して出会った人との関係が、その場限りでは終わらなくなっていった。取材が終わっても関係が続く。別の土地へ行けば会う人がいる。仕事として始まった関係が、時間をかけて信頼に変わっていく。
その実感が、裕希さんの中でインタビューの意味を変えていった。
話を聞き、記事にする。その行為は、そこで終わらない。人の背景に触れることで関係が生まれ、その先にまた別の接点がつながっていく。
やらされて始めたものが、少しずつ自分の目的とつながっていった。
その後、記事の執筆を他の人に任せられるようになった時、裕希さんはさらに強く感じた。自分は、書くことそのものよりも、聞くこと、会うこと、その場で相手の言葉を受け取ることに向いているのかもしれない。
文章を書くこと自体は、苦手ではなかった。自分の考えを言葉にすることはできる。けれど、相手の言葉を受け取り、記事として形にするのは別だった。背景をどこまで聞き、どの言葉を残すのか。その判断に、難しさがあった。
インタビューを通して、相手を知る。同時に、裕希さんは自分自身の輪郭も知っていった。
聞く理由
裕希さんは、人の話を聞くのが好きだからインタビューをしている人ではない。
むしろ、自分でも「人の話を聞くのが好きだと思っていたけれど、全然好きではなかった」と気づいたという。
ここには、裕希さんらしい率直さがある。
人に関心がないわけではない。ただ、人の日常すべてに興味が向くわけでもない。知りたいのは、別のところにあった。
「その人自身がどういう意思決定をしてここまで生きてきて、これからどんな未来を描きたいのか」
聞こうとしていたのは、答えそのものではなく、その人がそこに至るまでの背景だった。
過去の話も聞く。どんな経験をしてきたのか、何を選び、何を越えてきたのか。その積み重ねを聞いたうえで、関心は、その人がこれからどこへ向かおうとしているのかに向いていく。
未来の話ができる人が好きだと、裕希さんは話す。
過去を懐かしむだけではなく、これからどうなりたいのか。どんな未来を考えて、今動いているのか。そこに触れた時、インタビューはただ話を聞く時間ではなくなっていく。
迷っている人に会うこともある。ただ、迷っていること自体よりも、その人がどう動こうとしているのかを見ている。現状に留まるのか、それとも未来に向けて何かを変えようとしているのか。そこに関心が向かう。
反対に、未来に向けて動こうとする感覚が見えにくい人とは、深く関係を育てにくいと感じている。
その言葉は強い。けれど、それは他者を切り捨てるための言葉ではなく、自分がどんな人と深く関わり、どんな人に時間を使いたいのかを見極めてきた結果でもある。
インタビューは、あらゆる話に同じ形で関心を向ける作業ではない。少なくとも裕希さんにとってはそうだった。
自分が何に深く反応するのかを知っていること。それは、インタビューを仕事にするうえで大切な感覚でもあった。
裕希さんにとって、インタビューは「相手の全部を知ること」ではない。
その人の意思決定や、これから向かおうとしている未来。その芯に触れられた時、相手への興味が深くなる。
未来の話に惹かれる感覚は、突然生まれたものではなかった。人との出会いによって、価値観や考え方が変わる。その感覚を、裕希さんは子どもの頃から持っていた。
誰かとの出会いが、自分の方向性を変えることがある。反対に、自分との出会いが、相手の何かを動かすこともある。すべてに同じ熱量で惹かれるのではなく、心が動く場所を知っている。裕希さんは、一つひとつの出会いに、そうした可能性を見ている。
興味があるのは、表面的な日常ではなく、その人が何に動かされ、どこへ向かおうとしているのかだった。
やらされて始めたインタビューは、裕希さんにとって、相手を知る仕事であると同時に、自分自身の関心を知る時間にもなっていった。
街の記憶
裕希さんの中で、旭川への想いは一度もぶれていない。東京に来た理由を聞くと、旭川の地域活性のためだったと話してくれた。今の仕事を始める前も、会社員だった頃も、その軸は変わっていない。
そこまで旭川にこだわる理由は、ひとつの記憶につながっている。
中学生の頃、裕希さんは初めて自分のお小遣いでCDを買った。そのCDを買った駅前の店が、ある日、突然、閉店してしまった。
旭川駅周辺が変わっていく中で、街は整っていく。けれど、その過程で、自分の記憶と結びついた店がなくなっていく。裕希さんはその時、自分の地元や街は、意外と簡単になくなるのだと感じた。
このままだったら、衰退していく。なんとかしなければいけない。
それが最初のきっかけだった。
裕希さんは、旭川の良い面だけを見ているわけではない。悪い面も知っている。良いも悪いも含めて、生まれ育った街として見てきた。その上で、街を良くしたいという気持ちがある。
その感情は、懐かしさだけではない。好きな街だから残したい、という単純な言葉だけでもない。
自分が知っている場所がなくなっていく。あったはずのものが、次に帰った時にはもうないかもしれない。その感覚が、街を考える入口になった。
ただし、ここで言う地域活性は、建物を建てることや、人を一時的に集めることだけではない。
「地域活性化って、人と人とのコミュニケーションが生まれる回数がどれだけあるかだと思うんですよ」
ネットが発展し、家から出なくても多くのことができるようになった。便利になった一方で、近所の誰かと顔を合わせたり、親ではない大人に相談したり、世代を超えて言葉を交わしたりする機会は、少しずつ生まれにくくなっている。
見ているのは、そうした接点だった。
以前は、公園へ行けば誰かがいた。近所の人と自然に話す機会があった。けれど今は、そうした偶然の接点が減っている。便利さによって失われたものもある。
街を良くすることは、きれいな場所を増やすことだけではない。誰かが誰かと会い、話し、また会いたいと思う。その回数が、街の温度を少しずつ変えていく。
だから、裕希さんは現場に立つ。
旭川に帰るたびに、自分で講座や勉強会を開き、年代を問わず人が集まる場をつくる。遠くから理想を語るのではなく、その場所に行き、そこにいる人と話し、必要な接点をつくる。
街を良くするために、まず自分が動く。
旭川への想いは、ただの感傷ではない。現場に立ち、人と関わり、未来を考える。その根には、今も旭川がある。
選んだ形
裕希さんが起業した理由は、お金を稼ぎたいからではなかった。
もちろん、お金が不要だという意味ではない。生活するにも、活動を続けるにも、お金は必要になる。けれど、裕希さんが動く理由の中心にあったのは、お金そのものではなかった。
何かをしたい。そのために、お金が必要になる。その感覚に気づいた時、起業の意味もはっきりしていった。
旭川のために何ができるかを考える時、法人という形が必要だった。だから会社をつくった。会社は、裕希さんにとって目的ではなく、動くための器だった。
会社員として働く道もあった。個人として動く道もあった。けれど、やりたいことを考えた時、それだけでは届かない範囲があった。
行政と関わること。企業と関わること。地域に対して継続的に働きかけること。そのためには、個人の思いだけではなく、社会の中で動ける形が必要だった。
起業は、裕希さんにとって派手な挑戦ではなかった。もっと現実的で、もっと必要に迫られた選択だった。
設立した会社の名前にも、その考え方が表れている。
いろえんぴつ株式会社。
その名前は、前職でインタビューを重ねる中で感じていたことから生まれている。裕希さんは、企業が自分たちにとって自然に続けてきたことの中に、外から見れば十分な魅力になるものがあると感じていた。
本人たちにとっては、特別なことではない。けれど、外から見ると、それは十分に価値のあることかもしれない。
では、それをどう発信していくか。
取材という手段を通して、記事、チラシ、SNSなど、いろいろな形に変えていく。裕希さんはそれを、色を塗っていくような感覚で捉えていた。
企業を白いキャンバスに例えた時、取材によっていろいろな色をのせていく。その意味合いから、誰かの中にある色を見つけ、のせていく存在として、社名を考えた。
最初は、もっと企業らしく見える社名も考えたという。けれど、周囲から「裕希さんのキャラクターには合っていない」と言われた。結果として、ひらがなの親しみやすさに落ち着いた。
名刺交換をすると、社名について聞かれることが多い。
裕希さんは、そこにも意味を見ている。名前は、ただ覚えてもらうためのものではない。相手が「それはどういう意味ですか?」と聞きたくなる入口でもあり、会話が始まるきっかけでもある。
社名やサービス名にも、そうした入口を置く。色をのせる、という考え方は、事業の説明である前に、人や企業の中にあるものを見つけ、外へ開いていくための姿勢だった。
サービス名の考え方にも、その意識は表れている。カラキャンという名前も、カラーオンキャンバスという考え方に由来している。会社の色、活動の色、人の色を見つけ、表に出していく。その感覚が、サービス名にも込められていた。
会社という器をつくること。名前に入口を置くこと。サービスに色をのせる考え方を込めること。その一つひとつが、裕希さんにとって、やりたいことを社会の中で動かすために選んだ形だった。
色を残す
色を残すことは、きれいに見せることではない。
その人や、その会社や、その街の中にすでにあるものを見つけ、誰かに届く形にしていくことなのだと思う。
裕希さんが見ている未来には、旭川がある。
そこにあるのは、大きな建物や一時的なにぎわいだけではない。誰かに会いに行く理由があり、ふと立ち寄れる場所があり、世代を超えて言葉が交わされる。そんな接点が、街の中に少しずつ増えていく未来を見ていた。
アイス屋の構想も、その入口のひとつにある。
ただ好きなものを形にしたいというだけではない。それが街を訪れる理由になり、誰かを誘うきっかけになり、会話が生まれる。食べる時間の先に、また来たいと思える記憶が残っていく。
人は、理由がなければなかなか街へ向かわない。けれど、小さな理由があれば、誰かに会いに行くことができる。
その理由を、ひとつずつ増やしていく。
取材で見つけた言葉も、会社に込めた名前も、サービスにのせた色も、すべてはそこへつながっている。人や企業の中にある価値を見つけ、外へ開き、誰かが思い出せる形にしていく。
あったはずの場所が、次に帰った時にはもうないことがある。
だからこそ、残す必要がある。建物だけではなく、店だけでもなく、そこにあった会話や、出会いのきっかけや、誰かを思い出すための手がかりを。
旭川に人が来る理由をつくること。
人と人が会話する場所を増やすこと。
世代を超えて関われる場をつくること。
その一つひとつは、まだ大きな形にはなっていないのかもしれない。けれど、言葉にし、会いに行き、場をつくり続けることで、街の中に少しずつ色は残っていく。
その色を、裕希さんはこれからも旭川の中に少しずつ残していこうとしている。
編集後記
裕希さんの話を聞いていて印象に残ったのは、自分の中にある想いを、言葉にし続けていることでした。
インタビュー、広報、旭川、これから形にしたいこと。一見すると別々に見えるものも、話を聞いていくうちに、同じ場所へ向かっているように感じました。
誰かに伝えることで、人がつながり、会話が生まれ、次の接点が増えていく。裕希さんにとって言葉にすることは、自分を大きく見せるためではなく、未来へ向かうための手がかりを周囲に置いていくことなのだと思います。
旭川への想いも、ただ懐かしむためのものではありませんでした。会いに行き、話を聞き、場をつくりながら、街の中に少しずつ何かを残していこうとしている。
今回の取材は、ひとりの人が自分の関心と故郷への想いを、どう未来につなげているのかを聞く時間でした。
