もう一度動き出した時間

インタビューの様子

もう一度
動き出した時間

REALORIA / Interview
JOURNEY
Location|Tokyo Interviewer|Takuya

早朝5時。まだ人も車も少ない都心を、仲間とバイクで駆け抜けた。原宿、渋谷、六本木、銀座を通って湾岸道路へ抜けるゴールデンコースは、昼間とはまるで違う表情を見せていた。途中立ち寄った、お台場のファストフード店のテラス席で朝食を囲む。そんな何気ない時間のなかで、普段の明るい彼からは想像のできない、これまで過去を静かに話してくれた。突然の喪失、父として生きた4年間、手放したもの、そしてもう一度戻ってきたもの。今回は、ひとりの父親が時間をかけて生き直してきた人生の記録です。

早朝のテラス

その日、5人の仲間と走ったのは、原宿、渋谷、六本木、銀座を通って湾岸道路へ抜けるルート。日中なら人も車も多く、にぎわいに包まれている。けれど、朝5時の東京の街はまるで別の顔をしていて、余計な緊張も渋滞もない。ストレスなく流れていく景色の中を、5台のバイクで都会の朝を駆け抜けた。


朝食をとるため、途中で立ち寄ったのは、お台場にある早朝から開いているファストフード店。せっかく気持ちのいい朝だからと、外のテラス席に座って朝食を取る。バイクの話から仕事の話になり、やがて家族の話になった。

普段の彼は、明るくて、その場の空気を和らげる人だ。だからこそ、そこにいた誰もが、これから語られる話を想像していなかったと思う。けれど、その何気ない朝の会話のなかで、彼は自分の過去をぽつりぽつりと話し始めた。

それは、ただ「大変だった」という一言では済ませられない時間の話だった。

突然の夜

娘さんが生まれたのは、「いい夫婦の日」の11月22日。初めて我が子を見たときの感動は、言葉にならないほどだったと笑みを浮かべながら振り返る。けれど、その翌23日の勤労感謝の日、人生はまったく違う方向へ動いてしまう。

深い眠りについた深夜、突然、病院から電話がかかってきた。詳しい説明はなく、とにかく急いで来てほしいという内容だった。半分眠ったような状態のまま病院へ向かい、静かな院内を進んでいく。通されたのは集中治療室。彼はそのとき、妻はまだ治療中なのだと思ったという。

しかし、目の前にあったのは、人工呼吸器につながれた妻の姿だった。心電図モニターに写る波形は、ゼロの位置のまま。医師からは、人工呼吸器を外した時点で死亡確認になることを告げられた。彼はその場で、何時間も声をかけ続けた。起きてほしいと願って、何度も、何度も。

やがて母親に電話をかけたとき、張り詰めていたものが一気に切れて、その場に崩れ落ちたという。

その後、事件性の有無を確認するため、司法解剖が行われた。帝王切開と子宮筋腫の手術が重なっていたこともあり、彼にとっては、これ以上妻の身体が傷つけられるような感覚に耐えがたさを覚える時間でもあった。その場にいた女性の警察官が涙を流してくれたことも、強く印象に残っているそうだ。出来事の大きさを、他人の反応によって改めて突きつけられる瞬間だったのかもしれない。

彼は当時、弁護士や医療従事者にも相談し、病院側への対応も考えた。ただ、裁判に進んでも失ったものが戻るわけではないという思いや、医療裁判の現実的な難しさがあった。最終的には、裁判に進むのではなく、残された娘さんのために時間とお金を使うことを選んだ。

その判断が正しかったかどうかを、外から簡単に言うことはできない。ただ、彼にとってそれは、突然すべてが失われたような出来事だった。

父になる

妻を亡くしたあと、彼は生まれてきたばかりの子供をひとりで育てることになる。

当時のことを振り返りながら、彼は一度だけ本気で自ら命を絶とうと考えたと話してくれた。前を見る気力がなく、いつも下を向いて歩いていたという。葬儀の手配も、その後の仕事の段取りも、目に入ってくるものすべてが思い出となって心に深く突き刺さり、気持ちが追いつかなかった。

それでも、踏みとどまらせたのは我が子の存在だった。自分には子供がいること。妻が命を懸けて産んでくれた、新たな命であること。そう思ったとき、この子と一緒に生きようと決めた。

彼は父親でありながら、母親の役目まで果たそうとした。母親がいない寂しさを少しでも埋めたい。その一心で、できることは全部やろうとした。周囲から「母親がいないから可哀そうな子」と思われたくないという気持ちも強かったという。子供にできるだけ苦労をかけないように、懸命に1日1日を回した。

けれど、現実にはどうしていいかわからない日々。ベビー用品店に行けば、周りには夫婦と子供で来ている家族。自分は子供と二人。子供服を選ぶときに相談する相手がいない。その光景がつらくて、早く店を出たいと思うこともあったという。

子供もまた、母親という存在への憧れを抱えていたのかもしれない。彼を「ママ」と呼んだり、祖母のことを「おばあちゃん」ではなく「ママ」と呼んだりすることもあった。彼は父としてだけでなく、母の不在まで背負おうとしていた。


妻を失ったあとの日々は、ただ時間が過ぎていくものではなかった。好きだったものに手を伸ばす余裕もなく、先のことを考える力もない。気持ちは常に、少し前の時間に取り残されたまま。

仕事も、すぐに元通りには戻らなかった。けれど、会社の仲間たちが支えてくれたからこそ、仕事を続けられたと彼は話していた。ひとりで立て直したのではなく、周囲の力に助けられながら何とか日々をつないでいた。

どこに、誰に、相談していいのかもわからない。前を見る気力さえ失い、下ばかりを見ていた時間が続いた。それでも、子供は待ってくれない。毎日の生活は続く。父として立ち止まることができない現実のなかで、彼は少しずつ、ただ悲しむだけではいられない場所へ押し出されていった。


手放したもの

彼にとって、バイクは大切な存在だった。けれど、子供との生活を考えたとき、それを手放す決断をした。自分の好きなものを優先するのではなく、子供を育てることを先に置いた。その判断は、簡単なものではなかったはずだ。

しばらくバイクを降りると、行きつけのバイク屋に伝えた。その後、店主から突然、昔使っていたベビー用品が大量に送られてきた。その行為がどれだけ大きな支えになったのかは、想像に難くない。

好きなものを諦めることは、単なる趣味の中断ではなかったと思う。彼にとってそれは、生き方そのものを一度組み替えることだった。父として生きるために、手放すものがあった。けれど、その選択の重さこそ、彼が何を守ろうとしていたのかを物語っている。

もう一度

彼が少しずつ前を向いていけた背景には、人とのつながりがあった。仕事の仲間だけではない。あるとき、自分と同じ死別父子家庭のコミュニティの存在も知った。

すぐに何もかもが解決するわけではない。ただ、自分と同じような境遇の人がいることを知るだけで、孤独の質は変わる。自分だけではないと思えることは、それだけで生きる力になる。

やがて、心から相談できる今の妻とも出会った。新しく人生をともにすることを考えたとき、彼は亡くなった妻のことを今でも忘れられないと率直に伝えた。それでも今の妻は、その思いごと娘さんとともに受け止めてくれた。

過去を消すのではなく、抱えたままこれからを生きる。彼が手にしたのは、そういう関係だったのかもしれない。

いま、彼は再びバイクに乗っている。好きだったものを一度手放し、父としての役目を最優先にしてきた時間を経て、もう一度バイクに戻ってきた。そのこと自体が、人生が少しずつ動き出した証のようにも思える。

再びバイクに乗れる今があるのは、今の妻と娘の理解と支えがあるからでもある。彼は、そのことへの感謝も忘れていなかった。


バイクを通して、新しい仲間とも出会った。あの朝、一緒に走った時間にも、その現在地がよく表れていた。ひとりで抱え込んでいた時期を通り抜けて、いまは誰かと走り、誰かと食事をし、何気ない会話のなかで過去を話せるところまで来ている。

深い悲しみの上にある今の幸せと、本当の感謝の意味を知ったのだと思う。当たり前に見える日常が、決して当たり前ではないことも。そうした時間を経て、少しのことでは折れない心も少しずつ育っていったのかもしれない。

それでも、過去が消えるわけではない。車を運転しているとき、ふと助手席に目をやると、亡くなった妻がいるように感じて、一瞬どきっとすることがあるという。娘さんが成長するにつれて、だんだん妻に似てきたと笑って話してくれた。

喪失は、なかったことにはならない。けれど、その喪失を抱えたまま、人はもう一度生きることができる。彼の話は、そういう時間の流れを静かに教えてくれた。

メッセージ

もし同じような想いや問題を抱えている人がいるなら、この話が少しでも救いや助けになれば嬉しいです。少しでも、ひとりではないと感じてもらえたらと思います。
風間 新佑さん

編集後記

早朝の都心をバイクで走り、朝の光が差すテラス席で朝食を囲む。そんな何気ない時間のなかで聞いた話は、出来事の大きさだけでは語れないものでした。

彼の話が強く残るのは、悲しみの深さだけではありません。喪失のあと、父として生き、支えを受け取り、時間をかけてもう一度人生を動かしてきた。その流れのなかに、この人の強さとやさしさがあるのだと思います。