自然体のまま、まだ見えていない魅力を撮る

インタビューの様子

自然体でいることが
いちばん純粋だった

REALORIA / Interview
CREATE
Location|Tokyo Interviewer|Takuya

都会の一角にある静かな緑地を一緒に歩きながら話を聞いた。立ち止まっては写真を撮り、また歩きながら言葉を交わす。そんな時間のなかで少しずつ見えてきたのは、フォトグラファーとしての技術や実績よりも先にある、彼女自身の感覚だった。みことさんが繰り返し話していたのは、「自然体でいること」の大切さ。なぜ、一度人を撮ることから離れ、また戻ってきたのか。その背景には、表現に対する彼女自身の問いがありました。

感覚が言葉になる

都会の一角にある静かな緑地を一緒に歩き、カメラを手にしながら言葉を交わした。木々の隙間から落ちる光、湿った土の匂い、足元に転がる木の実。そうしたものに、みことさんは何度も反応し、そのたびに「あ、これ撮りたい」と自然に言葉がこぼれていた。

整った構図を探す前に、先に身体が動いている。何かを見つけた瞬間に足が止まり、レンズを向ける。その迷いのない動きに、写真が彼女にとってごく自然な表現であることが表れていた。


最初から答えが用意されているわけではなく、話しながら少しずつ自分の感覚を確かめていく。言葉は整理されきっていないけれど、そのぶん考えの芯に近いところから出てくる。

みことさんは後から、この時間そのものがとても楽しかったと話してくれた。言葉を交わしながら一緒に考えをほどいていくうちに、自分の中にあった感覚が少しずつ言葉になっていった。そのこと自体が、自分を見つめ直すきっかけにもなったのだという。

整えないまなざし

もともと彼女は、写真だけを一直線にやってきたわけではない。音響の専門学校に通い、服を作り、レジンやインクを使った作品も制作していた。一時期は、そうした「物を作ること」に力を注いでいたという。そうした時間も、今の写真の感覚につながっているのだろう。

それも、彼女にとっては確かに自己表現の一つだった。けれど、作ろうとすればするほど、どこかで少し純度が落ちていく感覚があったという。どう見せるか、どう整えるか、どう完成させるか。考え始めるほど、自分の中に別の意図が混ざってしまう。

何かを見て「きれい」と思った瞬間。思わず立ち止まった時。言葉になる前に、直感で何かへ反応している状態。その時のほうが、作った作品よりずっと自分に近い。彼女はそう気づいていったのだという。

だからこそ、写真が近かった。「あ、これ撮りたい」と思った瞬間に撮るもの。言葉より前に出る感覚を、そのまま掬えるもの。自然体の状態で何かへ反応している瞬間こそが、自分にとって最も純粋な自己表現であり、写真はその時々の最適解を探るための手段なのだと気づいた。そうして彼女は、写真をもう一度、自分の表現として選び直していった。

自然体の状態で、そのまま、何かに反応している自分が、一番純粋な自己表現なんだなって気づいた
みことさん

今は人物撮影を軸に活動しているが、一度、人を撮ることから距離を置いた時期があった。もともとは家族写真や子どもの記念撮影など、人を撮る仕事を多くしていたという。ただ、その仕事を続けるうちに、自分が本当に撮りたいものと、仕事として求められるものとの間にズレが生まれていった。

特に大きかったのが、子どもを撮るときの違和感だった。子どもには、その瞬間ごとの動きや表情がある。今走りたい、今遊びたい、そのままでいたい。その自然な姿こそ魅力なのに、大人は「ちゃんと並んで」「こっちを向いて」「いい顔して」と求める。もちろん記念として残したい気持ちはわかる。それでも、自然な魅力を半減させるような整え方を、自分が心からやりたいのかと問われると、だんだん苦しくなっていった。


仕事として応えることと、自分が撮りたい写真との間で揺れた。

依頼者が求めるものはある。ちゃんとした記念写真を残したい気持ちもわかる。けれど、その場で起きている生きた表情や、人間味のほうが、自分にはずっと魅力的に見えていた。やがて彼女は、しばらく人を撮らない時間を持つことにした。その間に撮っていたのは、我が子や、出かけた先で見つけた風景や光だった。誰かから求められたからではなく、自分が反応したものだけを撮る時間。そこには静かさがあり、同時に、自分が本当に何を撮りたいのかを見つめ直す時間でもあった。

また、家族との日々のなかで、思うように自由に動けない時期も続いていたという。本格的に広げたい気持ちはあっても、現実にはその通りに動けない。でも彼女は、その時間のなかでも撮ることそのものの意味を見失わずにいた。

存在がにじむ方へ

転機になったのは、友人からの問いかけだった。

「また人を撮らないの?」

その言葉を受けたとき、彼女は初めて、自分が本当は人を撮りたかったのだと気づいたという。

嫌いになったわけではなかった。向いていないと思ったわけでもなかった。ただ、自分が撮りたい人の姿と、仕事として求められる見せ方とのズレに苦しくなっていただけだった。


彼女が撮りたいのは、整った「いい写真」だけではない。

その人の人間味が見えること。表情や言葉の奥にある、その人らしさが伝わること。写真を見たときに、なんとなくでも「この人ってこういう空気を持っているんだろうな」と感じられること。綺麗に整えられた一枚よりも、その人の存在がにじんでいるほうが、ずっと惹かれるのだという。

それは、子どもを撮っていた時に感じていたことともつながっている。 不自然に整えるのではなく、その人がその人でいられる状態のまま写したい。人を撮ることに戻ってきた今、彼女がようやく言葉にできたのは、その願いだったのかもしれない。

人をより魅力的に見せるために、角度や立ち位置、流れを一緒に整えることはある。けれど、その演出がその人の自然さを消してしまうなら、それは自分のやりたいことではない。そこに、みことさんの感覚がにじんでいた。

まだ見えない魅力

将来ずっと写真だけをやっていきたいのかと聞かれたら、彼女は「まだわからない」と答えた。写真は大切な手段ではあるけれど、それだけがすべてではない。もっと面白い手段があるなら、そちらに向かってもいい。言葉を使うかもしれないし、対話を使うかもしれない。写真は、いまの自分にとっていちばんしっくりくる手段だという。

写真は手段だから、その時その時の最適解でやっていきたい
みことさん

大切なのは、「撮って終わり」ではなく、その人自身もまだ気づいていない魅力に触れること。その人が「こういう自分もいるんだ」と思いながら前に進んでいけること。そこに、写真と言葉の両方が使えるのではないかと、いま彼女は考え始めている。

最近は、人と組んで何かをすることにも面白さを感じ始めているという。以前は、一人でやるほうが早いと思っていた。自分の中で完結したほうが、余計な調整もいらないし、判断もぶれない。けれど、違う経験をしてきた人と組み合わさることで、自分一人では届かない場所まで行けるかもしれない。そんな感覚に、少しずつ心が開いてきた。

自然体の化学反応

彼女は、「そのままでいてほしい」という感覚を何度も語っていた。

自分も自然な状態でいたいし、相手にも自然な状態でいてほしい。その状態同士でつながれるのが理想であり、作り込んだ人同士の掛け合わせほど面白くない、と彼女は言う。彼女が惹かれているのは、作り込まれていないもの同士が出会ったときに生まれる「自然体の化学反応」なのだ。

写真も、言葉も、人とのつながりも、たぶん全部そこにつながっている。

何かをうまく見せるためではなく、その人がありのままでいられること。その状態のまま誰かと出会い、何かが動き出すこと。写真はいま、そのためにいちばんしっくりくる手段なのだろう。


静かな緑地を一緒に歩きながら、彼女は本当によく反応していた。

光、緑、人の気配。何かを見つけるたびに、楽しそうにカメラを向ける。その反応の速さと喜び方に、彼女の感覚がそのまま表れていた。

最近は、今まで考えられなかったような人たちとつながることも増えているという。違う経験をしてきた人と組み合わさることで、自分一人では届かない場所まで行けるかもしれない。そんな感覚にも、少しずつ心が開いてきた。

みことさんの眼差しは、まだ形になりきっていないものが誰かとの間で少しずつ輪郭を持っていく、そんな時間へ向いているのかもしれない。

メッセージ

対話の中で自分の中にバラバラにあった考えが少しずつ言葉になっていく感覚がありました。自然体でいること、人を撮りたいと思う理由、写真を手段として捉えていること。話しながら、一つひとつを改めて見つめ直すきっかけにもなったと思います。
みことさん

編集後記

今回の対話で強く残ったのは、みことさんが写真について話しながら、実はずっと「どう生きるか」を語っていたことでした。自然体でいることを大事にする人が、もう一度人を撮るところへ戻ってきた。その流れ自体が、みことさんらしい飾らない表現なのだと思います。